次の文章を読んで、後の設問に答えよ。
第 一 問
いまさらいうまでもなく、仮面はどこにでもあるというものではない。日本の祭に常に仮面が登場するわけではない。世界に視野を広げても、仮面を有する社会は、一部の地域にしか分布しない。オセアニアでは、メラネシアでしか、仮面はつくられていない。南北アメリカなら赤道をはさんで南北に広がる熱帯雨林やウッドランド、サヴァンナ地帯だけで仮面がつくられているというわけではない。アフリカでは広い範囲で仮面の制作と使用が確認できるが、それでもすべての社会に仮面が存在するというわけではない。
いまひとつ、仮面が農耕やシュリョウ・\ruby{漁撈}{ぎょろう}・採集を主たる生業とする社会にはみられるものではけっしてない。牧畜社会にはみられないという点も忘れてはならない。いずれにせよ、仮面は、人類文化に普遍的にみられるものではけっしてない。
ただ、世界の仮面の文化を広くみわたして注目されるのは、仮面の造形や仮面の制作と使用を支える組織のありかたに大きな多様性がみられる一方で、随所に、地域や民族の違いを越えて、驚くほどよく似た慣習や信念がみとめられるという事実である。相互に民族移動や文化の交流がおこったとは考えられない、遠く隔たった場所でよく似た現象がみとめられるというのは、やはり一定の条件のもとでの人類に普遍的な思考や行動のありかたのあらわれだと考えてよい。\textsuperscript{ア}その意味で、仮面の探求は、人間のなかにある普遍的なものの探求につながる可能性をもっている。
地域と時代を問わず、仮面に共通した特性としてあげられるのは、それがいずれも、「異界」の存在を表現したものだという点である。ヨーロッパでいえば、ギリシアのディオニソスの祭典に用いられた仮面から、現代のカーニヴァルに登場する異形の仮面や魔女の仮面まで、日本でいえば、能・狂言や民俗行事のなかで用いられる神がみや死者の仮面から、現代の月光仮面(月からの使者といわれる)やウルトラマン(M78星雲からやって来た人類の味方に至るまで、仮面はつねに、時間の変わり目や危機的な状況において、異界から一時的に来たり、人びとと交わって去っていく存在を可視化するために用いられてきた。それは、アフリカやメラネシアの葬儀や成人儀礼に登場する死者や精霊の仮面についてもあてはまる。たしかに、知識の増大とともに、人間の知識の及ばぬか、月に設定するか、あるいは宇宙の果てに設定するかの違いだけである。たしかに、異界を、山や森に設定するか、世界=異界は、村をとりまく山や森から、月へ、そして宇宙へと、どんどん遠くへ退いていく。しかし、世界を改変するものとしての異界の力に対する人びとの憧憬、異界からの来訪者への期待が変わることはなかったのである。
ただ、忘れてならないのは、人びとはその仮面のかぶり手を、あるときは歓待し、あるときは慰撫し、またあるときは痛めつけてきたということである。仮面は異界からの来訪者を可視化するものだとはいっても、それはけっして視られるためだけのものではない。それは、あくまでもいったん可視化した対象に人間が積極的にはたらきかけるための装置であった。仮面は、大きな変化や危機に際して、人間がそうした異界の力を一時的に目にみえるかたちにし、それにはたらきかけることで、その力そのものをコントロールしようとして創りだしてきたものの一つである。そして、テレビの画面のなかで繰り広げられる現代の仮面のヒーローたちの活躍もまた、それと同じ欲求に根ざしているのである。
ここでは、仮面が神や霊など、異界の力を可視化し、コントロールする装置であることを強調してきた。しかし、そのような装置は少なくともうひとつある。神霊の憑依、つまり憑霊である。しかも、仮面をかぶった踊り手には、霊が依り憑き、踊り手はその霊になりきることが多かった。いちいち引用の出典を記すまでもない。仮面をかぶった踊り手には、それは神そのものだといった議論は、世界各地の仮面についての民族誌のなかに数多く見いだされる。
たしかに、神や精霊に扮した者は、少なくとも何がしかの神や精霊の属性を帯びることになるという信念が維持されていなければ、彼らとかかわることで福や幸運が享受できるかもしれないという、かすかな期待を人びとが抱くことすら不可能になる。その意味で、儀礼における仮面と憑依との結びつきは、動かしえない事実のようである。
しかし、その一方で神事を脱し芸能化した仮面や子どもたちが好んでかぶる仮面に、憑依という宗教的な体験を想定することはできない。仮面のありかたの歴史的変化が語っているのは、\underline{イ}仮面は憑依を前提としなくなっても存続しうるという事実である。そしてその点で、仮面は決定的に霊媒と異なる。霊媒は憑依という信念が失われた瞬間、存立しえなくなるからである。
仮面と憑依の相同性を強調した従来の議論に反して、民族誌的事実と歴史的事実は、このように、ともに仮面と憑依との違いを主張している。仮面は憑依とひとつの顔でありつつも、それとは異なる固有の場をもっているのである。では、その固有性とは何か。それを考えるには、顔をもうひとつの顔で覆うという、仮面の定義以外にないであろう。そして、その定義において、仮面が人間の顔ない身体をその存立の与件としている以上、仮面を私たちの身体的経験に照らして考察することにする。
仮面と身体とのかかわり。それはいうまでもなく、仮面が顔、素顔の上につけられるものだという単純な事実に求められる。もちろん、世界を広くみわたしたとき、顔の前につける仮面は、必ずしも一般的だとはいえない。むしろ、顔と体全体を覆ってしまうかぶりものの方が多数を占めるかもしれない。しかし、その場合でも、顔が隠されることが要件であることは間違いない。
変身にとって、顔を変えることが核心的意味をもって明確に示したのは、\underline{ロ}和辻哲郎であった。私たちは、たとえ未知の他人であっても、その他人の顔を思い浮かべることなしに、その他人とかかわることはできない。また、肖像画や肖像彫刻にみるように、顔だけで人を表象することはできても、顔を除いて特定の人物を表象することははできない。このような経験をもとに、和辻は「人の存在にとっての顔の核心的意義」を指摘し、顔はたんに肉体の一部としてあるのでなく、「肉体を己れに従える主体的なものの座」、すなわち「人格の座」を占めていると述べたのであった。
この和辻の指摘の通り、確かに私たちの他者の認識の方法は顔に集中している。逆にいえば、他者もまた私の顔から私について認知する要\ruby{る}{る}。しかし、他者が私を私として認知するのに、顔だけは絶対に見えるのに、その顔は私にとってもっとも不知な部分として、終生、私につきの言葉を借りていえば、顔は私の人格の座であるはずなのに、自分の身体でも他の部分なら鏡を使わずになんとか見えるのに、その顔は私にとってもっとも不知な部分として、終生、私につきまとうことになる。